小説(1995年作品)帰って来たヒーロー・2

黒木の後釜に入ったのは、名古屋Sホテルでセコンドチーフだった大杉である。チーフに昇格した大杉は使いやすい忠実な自分の部下を引き連れて移動してきた。そうなると、誠の存在は自然と浮き上がる形になってしまった。
 黒木チーフのもとでは、セコンドチーフに手がかかるストーブ前前まで順調に昇進してきた誠だったが、もはやセコンドチーフの道は閉ざされ多様なもので、邪魔者扱いの飼い殺しを覚悟しなければ、もう勤まらなかった。
 誠の窓際暮らしは三週間と続かなかった。黒木前チーフの息がかかった数少ない生き残りの一人だった、フロアーの主任、倉本が辞表を出したことが、誠に辞職を決意させた。倉木は黒木がホテルを去ったあと、何かにつけて誠がやり易いように配慮してくれていた、唯一の見方だったのである。
「そうか。やはり無理だったの。君には悪いことしちゃったな」
 黒木はマンションの自室を訪れた誠に、まるで我がことのようにため息をつき誤った。そんなところが、たくさんの男や女をひきつけ信頼されるゆえんだった。
「それで、田舎に戻るの?」
 自室に招き入れてくれた黒木は、かなり高価なウィスキーボトルの封を切ってくれた。
「はあ。もうそうするしか思い浮かばなくて……?」
「残念だね。君の夢が中途半端な形に終わってしまうのか」
「仕方ないです。それに夢ったって、東京で十年、料理一筋にかけた生活をおくってみようって、面白くもなんともない代物だから……」
 黒木にはSホテルのレストランSに就職するとき、面接を受けた。誠は正直に自分の夢を黒木に話していた。十年、とにかく田舎に戻ることなく、東京で料理三昧に明け暮れた生活をしたいのだと。黒木は、その単純明快な夢を買って、採用する気になったんだ、と半年後に漏らしてくれた。
「俺もな、君と同じ穴の狢さ。Sの料理宴会部門の総責任者になる夢も、一夜にして水の泡になっちゃったよ。今じゃ僕も東京の場末にあるレストランで働く一介のシェフだよ」
 黒木は明るく冗談口を叩いた。
「お互い、歳だからね。ま、慌てず騒がずゆっくり行くしかないさ」
「はあ」
 黒木は誠より二つも若い。誠は苦笑で応えるしかなかった。

 五年ぶりの関西は誠を拒絶することもなく優しく迎えてくれた。電車の乗り継ぎも5年前と、そう変化はなかった。根っから貧乏性のところがある誠は、急ぐ旅でもないことから、新幹線を利用せずに、在来線を乗り継いで帰って来た。だから、5年前と変わり映えしない交通事情は実に有難かった。
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