昨年の入選作(妊婦のユ~トピア)

「どないしたんや?」
 目ざとい夫の俊哉は、いつもとちがう妻の様子を気にして言った。
「うん。…なかったんや」
「え?ないって、どういうこっちゃ」
「そこ…更地になってた。近くの煙草屋さんで訊ねたら、三年前に病院閉まったって…院長先生が亡くなってすぐだったらしいわ」
「跡継ぎがおらんかったんやな。そやけど想定外や・それでどないする?」
「うん。…みんなに訊いて、ええとこ探すわ」
 彩奈はお腹をさすりながら答えた。
 自信はなかった。誰に訊けばいいものだろうか。短大時代の友人たちは揃って遠くにいる。子どもに恵まれている彼女らの産院情報を生かすのは地理的に無理だ。
 きょう訪ねた稲坂産婦人科医院は、彩奈の母が見つけてくれた。
「人気があるんや。みんな言うてるわ。食事かて、ええもんが出るらしいよ」
 ホステスの経験がある母の情報源は確かなものだった。他に選択肢があるわけでもない彩奈は稲坂医院で長女を出産した。母体も赤ん坊もいたって元気で、退院も早かった。
 第二子の出産も稲坂医院を頼った。院長先生もスタッフももう顔馴染みで、気分よく息子を産んだ。どちらの場合も帝王切開でなく自然分娩となった。稲坂医院に感謝した。
 その信頼する稲坂産婦人科医院は、もうなかった。探し出してくれた母も、もういない。脳溢血で倒れた父と離婚している。実は彼女、彩奈の実母ではない。入院した父が結局回復せず亡くなって以来、彼女との音信は当然のごとく途絶えた。もう他人の母を頼れない。「どうしたん?えらい浮かん顔してからに…」
 恵那さんはカウンタ越しに訊いた。
 彩奈と俊哉夫婦が切り盛りするコーヒー専門店の常連客だった。三十代後半らしい恵那さんは、大柄で押しのきいた女性だった。お喋り好きな恵那さんは自分のこともよく喋った。
 神戸北野町でレストランを経営しているせいか、彩奈の店にあれこれ注文をつけるお節介な女性だった。ただ年齢も少し離れたおねえさんを、彩奈はごく自然に慕った。彩奈は恵那さんを『ママさん』と呼ぶ。レストランのオーナーだから、そうなった。
「あらそう。知らなかった。ふーん、三人目が出来たんだ。おめでとう」
 恵那さんは彩奈の妊娠を知ると、手を叩いて祝った。ざっくばらんな気性だから彼女のふるまいに嫌みは全く感じない。
「それにしても、馴染みの病院がなくなってしまったのは大変よね」
「ママさん、どこか安心できる産婦人科の病院、知りはりません?」
「うーん、産婦人科ねえ」
 恵那さんは天井を睨んでうなった。
 恵那さんは顔が広い。実は長女が赤ん坊のとき、小児科の先生を紹介して貰った。恵那さんがよく知る大学時代の友人だという小児科医師の適格な診断で、川崎病が判り適正な治療を受けられた。高熱で顔を真っ赤にした娘を抱えて駆けずり回った小児科医院はどこも「風邪やね。薬を出しときます」で済ませた。それを恵那さんの友人は救ってくれた。
「うちも息子がひとりいるから、お母さんの大変さはよく判るの。他人ごとじゃないんよ」
 恵那さんはたいしたことないと受け流したが、彩奈と俊哉はいくら感謝してもし足りなかった。あれ以来、恵那さんに頼る状況に遭遇しなかった。またその機会が訪れた。
「助産院じゃ駄目?」
 恵那さんは意外な名称を口にした。助産院?(産婆さんのことよね…)彩奈は戸惑いを隠せなかった。進歩的なイメージが強い恵那さんと『産婆さん』がどう考えても繋がらなかった。
「…あのう、産婆さん…ですよね?」
「そうよ。あたしの息子をとりあげてくれたとこ」
「?」
あいた口がふさがらないとは、こういうことを言うのだろう。恵那さんは設備の整った産婦人科病院ではなく、産婆さんが取り上げる助産院で出産している。信じられなかった。
「いい産婆さんなんだ。もう高齢だけど腕は確かよ。それに妊婦のことよく判ってるわ
「はあ、そうなんですか」
「行ってみる?」
 即答できずにいる彩奈に発破がかかった。
「まず一度あって見なさい、センセイに。決めるのはそれからでいいんじゃない」
 結局彩奈は頷いた。
「ママさんのいうことだろ。間違いないよ。行ってみろ行ってみろ、なんにしても損はないだろ」
 俊哉は無責任に囃したてた。(もう他人ごとだと思って…あんたも当事者なんだからね。忘れるなよ)彩奈は胸の中で毒づいた。
 榊原助産院は、大通りから路地に入ると、ズーッと奥まったところにあった。前に車を停めるスペースはない。『車でお越しの方は、裏手に駐車場があります』と書かれた掲示板が、外れかかっている。建物も相当な年代物だった。ただ構えはしっかりしている。開院当時は、かなり贅沢な造りだと想像できた。
 チャイムらしきものが見当たらないので、重々しい引き戸を押し開けた。
「こんにちわ!」
 一度では何の反応もなかった。三度目でようやく人の気配を感じた。出て来たのは六十代の女性だった。
「すみません。恵那さんから紹介された、関本というものですが…」
「ああ、関本さん。伺うてますよ。どうぞどうぞ、入ってくださいな」
 愛想よく通されたのは応接間。申し込みの手続きをするにはそぐわぬレイアウトである。
「ここでお待ちください。センセイ、いまお菓子作ってはりますんや」
「はあ?」
 優しさが溢れた女性の笑顔に、彩奈は誘われて頬笑んだ。抱えている不安が消えていく。
 応接間は質素だが、こじんまりとまとまって暖かみがあった。
「えらい待たせてもうてごめんね」
 品の備わった老婦人が、ぼたもちを盛った大皿を手にあらわれた。反射的に立ち上がりかけた彩奈を、そーっと制すると言った。
「妊婦さんは気を使うたらあかんし。もちろん重いもん持ってもあかんねんで。この時ばかりは女王様でおったらええんや、おんなは」
 彩奈の怪訝な顔を見て取ったのだろう。
「わたしがここの院長です。榊原花梨いいます。もう90やけど、まだまだボケとりまへんで」
 しっかりした口調の自己紹介だった。
「甘いもん、お腹の子にもええんやで。遠慮せんと食べなさい」
「はあ」
「ああ、診察かいな?心配せんでええ。妊娠は病気やないんやから。あとでちょこっと診させて貰うけど。最初はそれで充分」
 榊原院長のふくよかな顔に安心感があった。
「センセイ、こんにちは!」
 応接間に女性が顔を覗かせた。
「有希さんか。約束時間ギリギリやで。はよ入り。甘いもん出来てるさかい」
「わあ、嬉しい、ボタモチつくりはったんやね、ウワー!美味しそう」
 出っ張ったお腹を抱えている。もう臨月は近そうだ。彼女のあとからまた妊婦が続いた。みんなおやつタイムが約束の時間らしい。
 応接間は賑やかな様相を呈した。榊原院長を囲んだ女子会である。彩奈を迎え入れた女性がお茶を運んで来た。煎茶だった。ボタモチを食べるには、持って来いの渋さである。
 彩奈はいつの間にか榊原院長が設けたお茶会の一員だった。身構えていたものが嘘みたいに綺麗さっぱりと消えた。
「有希はん、もうそろそろかいな?」
「予定日は昨日なんですよ…」
「そんなん気にせんでええ。お腹の子は出とうなったら、ちゃんとお母ちゃんに教えてくれるから、安心しい。気―ラクにして。センセイが診るには、今夜あたりやな」
「ほんまですか?ほなら入院せな」
「ああ、そないしたらええ。旦那さんはどないしてや?ちゃんと出産に立ち会えるんか」
「はい。予定日の前後は有給を取ってくれてますねん。はよ赤ちゃんの顔が見たいいうてます」
「ほうかほうか。ほな有希さんも頑張らなあかんのう」
「はい!頑張ります!」。
 榊原院長と有希の会話は、傍にいる彩奈の心を和ませた。
「ノリコさんは、検診やったなあ。お茶終わったら診てみようか。この前までは余分な下りもんもなかったし、タンパクも異常なし……。どや?お腹の子、元気しとるやろ」
「はい。時々蹴りよるんです。主人が、こない元気なんやから間違いのう男やな、なんていうんですけど」
「それは生まれた時の楽しみにしときなさい」
「はい。そりゃあもう、主人と二人して、男や女やと毎日楽しんでます」」
「そうかそうか、それはお腹の子も幸せやな」
 彩奈は自分の顔が緩むのを知った。なんとも不思議な快感があった。
「さあ、ほなら、関本さん、ちょっと診てみまひょか。今日は旦那さん、忙しいんやな。次回はいっぺんお二人で来てください。出産は女だけのもんやあらへん。夫婦ふたりで迎えて、一緒に頑張り、一緒に喜ぶもんやから」
「はい。うちの人も喜んで来さして貰うおもいます。いえ、一緒に来ます」」
 彩奈の心は決まった。榊原先生なら、生まれる子供も満面の笑みは間違いないだろう。
(完結)
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