2005年度作品・犬死に

明日は娘の演奏会。そして大雨。
落ち着いて、ブログが書けないので、
旧作をアップしました。申し訳ありません。



「チリチリチリ…」 
どこかはるか遠くから伝わってくる。夢見ごこちで聞いている。
 いきなり体が激しく揺り動かされた。
「おとうさん、おとうさん」
 耳元に飛び込む声。現実に引き戻されるには充分過ぎる。目を開くと、ぼんやりした人の顔が真正面にあった。輪郭までぼやけて、誰が誰だか分からない。狼狽して枕もとに手を伸ばす。近眼者の本能みたいなものだ。
「はい、メガネ」
 妻の声だった。手に、馴染んだメガネのツルの感触が戻った。急いでかける。目の前が鮮明さを回復する。妻の顔を確認すると、やっと落ち着いた。
「電話よ」
「俺に?」
 めったに受話器を握りはしない。無類の電話嫌いだった。よほどのことがなければ電話口に立たない。「おとうさんは?と聞かれたら、いまいません、言うとってや」と家族にきつく言い聞かせている。それが、わざわざ寝入っているのを起こすぐらいだから、大ごとなのかも知れない。
「会社の人からよ」
「会社?いったい何やねん」
 心当たりは全くない。夜勤専門で弁当会社に勤めている。もう十年近く勤めているが、電話連絡があるなんて滅多になかった。といって無視するわけにはいかない。
「はい、杉崎ですが」
「ああ、杉崎さんか。わし、野呂木や。他でもないねんけど……」
 同じ部署で働いている野呂木は、ちょっと言い淀んだ。それがいきなり大声になった。
「吉森はん、知ってるやろ。あの人、仮眠してたんや、車でなあ」
 要領を得ない。やはり同じ部署で働いている吉森は、よく知っている。野呂木に聞き返した。
「誰も気がつかなんだんや。そいでな、吉森はん、死んではったんやと」
「……?」
 野呂木が何を言いたいのか、まるでピーンとこなかった。起き抜けのせいでまだ頭がぼんやりとして、働くまでにいたっていない。
「一緒に働いてはった、吉森はんなあ」 
 じれったそうに野呂木は繰り返した。
「車ん中で死んではったんやわ。警察も来てなあ、もう大騒動やがな」
(吉森はんが死んだ!)ようやく頭は正常に働きだした。人の好さを丸出しにした吉森の笑顔が急に思い浮かんだ。(まさか……?)
 今朝方まで杉崎の仕事をサポートしていたのに、それがなぜ?手近な時計に目をやった。昼の一時。わずか半日しか経っていない。
(何で?)
 全く要領を得ない。頭が混乱していた。
「ちょっと疲れましたわ。悪いでっけど、はよ帰らせてもらいますわ」
 吉森の最後の言葉だった。確かに顔色は決してよくなかった。しかし、それはいつものことだった。だから気にもならずに、いつもの軽口で応じた。
「ええよ。はよ帰って休んだ方がええわ。お互い歳やから、無理は禁物やでな」
 それが、いつも通りに終わらなかった。最悪の結果が、いま手元の受話器を通してもたらされている。
「はよ伝えよ思たさかいに……」
 野呂木の言葉の最後の方は耳に飛び込む寸前に消滅したかのように聞こえなかった。
「何やったん?」
「アルバイトのおっさんが死んだんやて、会社の駐車場で」
「まあ。きのう一緒に仕事してはったんでしょ」
「ああ。ほんまに信じられへんわ」
 思わずため息が口を吐いて出た。
「人間手えらい脆いなあ。いやんなるほど」
 妻の言葉には実感がこもっていた。
 無理はない。昨年の後半から、立て続けに身近な人の死に遭遇している。それも信じられない若さで亡くなったのが二人もいる。十八歳の女子高校生と、十九歳の浪人生。どちらも交通事故の犠牲者だった。杉崎が済む町の右隣に位置する分譲団地の住人の女子高校生は長女の同級生だった。浪人生は長男が所属したバレーボール部の先輩で、こちらは左隣の町の住人だった。どちらも自宅から百メートルも離れていない道路で、勿体な過ぎる尊い命を一瞬にして亡くした。
 通夜も葬儀も足を運んだ。通夜の席で放心状態だった親たちは、葬儀では懸命に気丈さを演じているのがわかった。思わず目頭が熱くなったのは、憐憫の心情きあらではなく、同じ子供を持つ父親の非情の境遇に自然と入り込んでしまったからだった。
「杉崎はんも来てたんかいな」
 車を臨時の駐車場に入れて、降り立ったところに野呂木の姿があった。過酷といっていい、厳しい職場環境の夜の仕事だった。そこで働く顔ぶれを見ると、まるで人生の吹き溜まりといった感がある。昼勤務には普通の会社のように若い世代が活躍しているが、夜は社員になれない中高年の天下だった。しかも半数以上は日系ブラジル人や中国研修生が占めている。残る日本人の六割は保証のない時間給で働くアルバイトかパートだった。
 同じ境遇の吉森はコンビニで働いた後、夜中の十二時から明け方の五時、六時までの勤務だった。そのコンビニもアルバイトだと聞いている。深夜の時間給千円を得るために疲れ切った体に鞭打っていたのだろう。
「実は吉森はん、死ぬ前の日にメールいれてくれとんや」
「マール?」
「最初で最後のメールになってしもうたわ」
 そういえば、吉森は仕事中しょっちゅうパソコンの話をした。唯一の趣味道楽らしかった。
「パソコン教室に勤めてる娘直伝なんやで。分からんことがあったら、何でも聞いてや。ただで教えますさかい」
 誰彼なくそう吹聴する吉森の姿を憶えている。
「メールのやり方を教えてくれてはっててな。もうすぐ孫が出来るんや。そやけどおじいちゃんなんて、年寄りくそうてかないまへんわ。そないなメールで、おどけてて……」
 小倉の言葉は詰まった。感極まったに違いない。身近な人の死は、現実的な生き方を選択している人間をも感傷的にさせてしまう。
「おはよう」
 ドヤドヤと他のスタッフが姿をあらわした。もう仕事を始める時間だった。フライヤーにしろ、魚焼き機にしろ、いったん機械を始動させると、コンベヤーを止めるわけにはいかない。人間が人間であることを一時忘れて、機械の部品にならざるを得ない。そんな仕事をやっているのだ。
 夜中の十二時。吉森の出勤時間だ。思わず外部に通じるスイングドアに目を向けた。
「おはようさん!今日は仕事ありまっかいな」
 底抜けの笑顔。抱えている事情のかけらすら感じさせない張り切りように、スーッと疲れが抜ける。すかさず応じる。
「おはようさん。ちゃんとおまはんの仕事残しとるで……?」
 スイングドアは開かない。
 目を戻した。手元に柵取りしたマグロがある。あと五百切ればかり、刺身をひかなければならない。そして盛り皿を用意する。二時過ぎから刺身の盛り付けだ。今日は二百五十の会席に配膳する皿盛りとオードブル。
 助っ人の吉森は、もう来ない。そう永遠に。
「お疲れさん」
 六時過ぎに仕事場を出た。もう誰も吉森の噂話をしない。明日には、あえて思い出しもしないだろう。そして、忘れていく。
(死んだら、おしまいなんやで……)
 頭の中で誰かがささやいている。

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