1995年小説・帰って来たヒーロー・5

風呂はいい塩梅に沸いていた。東京では銭湯通いで、落ち着いて風呂に浸かれなかった。忘れもしない家庭用の湯船に湯があふれんばかりに満たされている。こぼすのはもったいない。そろそろと湯に体を沈ませた。首まで浸かると、快感がkら蛇十二走る。

「どないや湯加減は?」

 焚き口に母がいる。安心感がある。

「いや、よう沸いてるわ」

「ほうけ……?」

 ははの声が途切れた。

 誠は静かに湯の中で首を伸ばすと、窓の隙間から覗いた。案の定、母は感極まって肩を小刻みに震わせている。昔から湿っぽいところがある母だった。しかし、今は心底ありがたいと思った。

「……泣くなよ、母ちゃん」

 心に吐き出した言葉は母に伝わったらしい。むくりと挙げた母の顔は、満面の笑みが広がっている。涙の跡が、くっきりと残っている。

「そない言うたかて、お前、五年も帰って来なんだんやぞ。連絡もよこしくさらんと、薄情な子やで。どいだけ心配しよったか……」

「わかっとる」

「それが、こないして無事に戻って来よったんや。喜ばん親がどこにおる?お母ちゃんはもう嬉しいてたまらんがな」

「わかっとるゆうとるやろ。しつこいんや、母ちゃんは」

 ぴしゃりと窓の隙間を閉じた。いくら母の思いに感謝しようとも、素直に礼を言うのは照れくさい。ズブっと顔を半分湯に沈めた。

「ありがとう」

 湯がゴボゴボと鳴った。

 次男坊の帰郷を歓迎する氷見家のすき焼き宴会は、かなり盛り上がった。

 ますます生前の父に似て来た兄は、よく食べよく飲んだ。名前は龍。弟の誠と対極的に名付けられたのだ。名は体を表すというが、氷見の兄弟は真逆だった。誠は考え知らずの行動が先に立つタイプで、兄は物静かで何事にも慎重に対処する、時々焦れったくなるタイプなのだ。家を守る跡継ぎに向いた性格といっていい。

「誠、もう東京は行かへんねんやろな?」

「ああ、こりたわ。ええ年のもんはあわん。若い奴の天下に媚びるしかあらへん。そら生きづらいで。おまけに田舎もんにはきつうて住みにくいとこや。山家のサルは、サル山で威張っといたらええ」

 誠は本当にそう思う。だから饒舌になる。

 借りていたアパートは下北沢にあった。一歩外へ出ると、若者が闊歩する町だった。二十代後半の誠には同化するどころか、息苦しさが先行した。仕事にかけた夢が、都から逃げ出したくなる誠の気力を唯一支えたといっていい。
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