小説(1995年)・帰って来たヒーロー・1

結局辞めるはめになってしまった。
 あれほどの夢を抱き、十年は帰らぬと腹をくくった上京だったのに、やっと目標を半分過ごしたところで力尽きた格好になった。
 氷見誠は、東京を引き上げる前に、この春まで世話になった黒木のマンションを訪ねることにした。関西から上京してきた誠を、この五年間、公私に渡って面倒見てくれた黒木は、ホテルを退職した後、彼の友人が経営するフランス料理店のチーフに迎え入れられている。
 黒木が主任チーフを務めていた新宿Sホテルのレストランを辞めたのは、今春の人事移動で、同じホテルチェーンの仙台Sホテルから移って来た北村支配人との対立からだった。
 バブルが弾けたことで、ホテルもリストラを余儀なくされている。Sホテルチェーンも御多分に漏れず、黒木が主導権を握っていた高級レストランSの材料費と人件費の削減を迫った。その先兵が北村支配人だった。
 ホテルの高級イメージを代表する一翼を担っているんだとの黒木の誇りは、材料費の削減によって店のイメージが低下することと、人減らしによって、これまでの高度なサービスが不可能になるのは分かりきっている。北村支配人の方針をおめおめと受け入れることを、よしとしなかったのである。
 黒木と行動を共にして十数人が辞めた。黒木を慕い頼みにする一派だった。もちろん誠も同調して辞める腹づもりだった。それをいさめたのは黒木その人だった。
「君は俺に殉じる義理も何もないさ。それに君は、ここを辞めたら、田舎に帰るしかないだろう。そんな物理的な重荷をわざわざ選んで背負わなくていい。北村支配人には、よく説明しておくから。氷見は俺の一派じゃないって」
 黒木の言葉の端々に、誠への好意的な配慮が感じられた。
 結局、誠は黒木の好意を受け入れる道しか選択肢はなかった。もともと社交性に優れているわけではない誠は、関西人が東京人になりきる困難さを嫌になるほど思い知らされていた。
 五年もの東京生活を経ながらも、友人知己といえば、職場の黒木や数人の同僚しかいない。それも飲んだり遊んだりする交友関係に過ぎなかった。恋人となると皆目縁のない寂しい五年間だった。
 三十間近い年齢に関西言葉と東京言葉のギャップは、そのまま手かせ足かせとなった。
 そんな誠がとにもかくにも東京生活を送れているのは、新宿Sホテルに固定した職場があるからに他ならない。だから、誠は黒木の助言にすがって、SホテルのレストランSに居残った。
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