誘惑

坂手将太は刺身包丁でマグロの柵をひき続けた。三千台の切り数が必要だった。イカ刺しとサーモンはすでに数を切り終えた。凍えた手は神経がかなり鈍くなっている。
 ゾクゾクする。足元から厳しい冷気が伝い上がる。生ものを扱う調理場だった。一年の大半は冷房を効かせた部屋となる。厳冬期はさすがに冷房は止められたが、ストーブなど暖房手段の持ち込みは禁じられている。何枚も衣服を着重ねて備えるしかない。制服の白衣はパンパンに膨れてボタンが引きちぎれそうだ。それでも寒さから完全に逃れられない。体を環境に慣らすしかこの仕事を全うする手段は他に見当たらない。
 もっとも気を付けるのが風邪。一度ひいてしまうと長引くのは解り切っている。気の緩みが一番の敵だ。。緊張感が解けた時に風邪のウィルスはここぞとばかり襲い掛かってくる。首筋に悪寒を感じたらもう万事休す、手遅れである。
 調理場の片隅にある事務机の上方にかけられた掛け時計を見た。一時四十三分。もちろん深夜だ。よく遅れる時計だった。人間と同じく厳しい環境は時計にも影響を与えているのかも知れない。作業に入る直前に調整しておいたからたぶん間違ってはいない。勤務は明け方の五時に終わる予定だ。とはいえ作業の物量の多寡で前後する。いくら超過勤務になろうと、残業手当はまずつかない。サービス残業をしたくなければ、作業を迅速に進めて終わらせるしかない。
 将太がこの仕事についたのは五年前。2×4工法のパネル製造工場で働いていたが、収入を増やす必要に迫られて転職した。ハローワークで見つけたのが仕出し・弁当専門の食品会社だった。深夜勤務だと時間給千三百円と、2×4パネル工場で貰う自給の一・五倍以上になる。しかし生活のリズムは大幅に狂う。仕事内容も未体験の部類である。
「大丈夫なの?夕方から翌朝までずーっと立ち仕事でしょ。体を壊さないか心配だわ」
 出産を控えた若菜は、額に皺を寄せて言った。あまり賛成ではないらしい。とはいえ子供が新たに家族に加わると、今の経済状態ではかなり無理を迫られる。考えれば他に選択肢はなかった。将太は妻に胸を叩いて無邪気に笑った。転職はそれで決まった。
「なにかやる事ある?」
 調理場を覗いたのは、パートの佳美だった。白い帽子とマスクで目だけしか見えない。どんな顔かは想像するだけだ。若いのか年を食っているのかも分からない。ただ、その目の印象と声は将太好みだった。
 佳美や他のパートたちが調理場に姿を見せるのは深夜の二時過ぎと決まっている。それまでは、生ものの入らない安価な弁当の盛り付けである。ひと晩で三千食から五千食前後の弁当を盛り付ける現場は壮観である。
 ベルトコンベアーが仕込まれたラインが六本。ラインの長さは五メートル以上ある。その両側にそって白衣姿のパートスタッフがずらりと並ぶ。コンベアーで流される弁当容器に調理済みの総菜やご飯を手際よく詰めていく。フライもの、卵焼きなど同じものを受け持つので、抜け落ちは誰の責任か明確に分かる。気が抜けなくて大変な作業である。熟練したパートなら、両手を間断無く動かして殆ど抜け落ちなく詰め込む。見事と言わざるを得ない。将太も時々盛り付け場に駆り出されるが、コンベアーの流れについて行けず、両隣のパートに迷惑をかけてばかりである。
「今日は結構仕事がありそうね」
「まあな。それじゃあワサビ台を作ってくれ」
 刺身皿に添えるワサビがいる。薄くくり抜いた胡瓜を台にしてワサビを盛り込む。単純な作業だが数が多いと厄介だ。しょっちゅうやっている佳美は手慣れたものだ。そちらは任せて将太はマグロひきに集中する。
「ねえ。坂手さんは真面目やね」
 単純作業にお喋りは付き物だ。そのお喋りに付き合わないと、パートたちの反感を受けかねない。仕事をスムーズに進めるのも大変である。もともと社交性に欠けた将太には、かなりな演技力が必要になる。その点、気の合うタイプの佳美が助っ人なら気が楽だ。相手に喋らせておいて、時々合槌を打てばいい。
「坂手さんは、奥さんだけ?」
「え?」
 思わぬ問い掛けにドキッとして佳美を見やった。佳美は胡瓜と包丁を手に、将太を見詰めていた。マスクで隠れた顔の中に目だけが見開かれている。妙にしっとりと濡れた感じがある。将太はドギマギした。
「ほかの女に興味はないの?」
「そんな……」
「坂手さんて、あたしの好みなんだけどなあ」
 将太は思わず身近に『オンナ』を感じた。それは男の身勝手な本能である。まして自分から女性にアプローチするタイプじゃない男の愚かな反応だった。棚から牡丹餅なのだ。
「……お、おれ……」
 将太は我を失いかけていた。その時、
「坂手さん、幕の内1015の刺身切れてる?」
 盛り付け場のパートだった。少し年を食った彼女は急いで商品番号を口にした。生もの入りの弁当の盛り付け開始の時間だった。
「ああ、切れてる。冷蔵庫や。持っていって」
「分かった」
 パートはさっさと食材を取り出すと、盛り付け場へ急ぎ取って返した。
 気をそがれた形になった。佳美はワサビ台の作業に戻っている。何事もなかったかのようにすまし顔である。将太も我を取り戻した。残る照れくささと上気した顔を誤魔化すために、調理台を離れた。調理場の奥まった一角に設えてある通称『トリ部屋』に入った。から揚げなど鶏肉の調理専用の部屋だった。サルモネラ菌対策の隔離部屋になっている。
 将太は唐揚げ用の鶏肉が入ったコンテナーを見下ろした。ブラジル産の冷凍肉を解凍中だった。冷気は、上気して火照った将太の顔をなだめてくれる。
 初めてではなかった。調理場にいると、しょっちゅうパートの女性からちょっかいを掛けられる。大半が生真面目な将太を揶揄するものだったが、中には本気で迫る相手もいる。佳美もその一人だった。とてもからかっているとは思えない。その判断が間違っているかどうかは別にして、近頃の将太は求められたら迷わず応じてしまいかねない。
 最近、妻の若菜は三人の子どもの育児に忙しくて、将太の扱いを後回しにする。三人も子供を産ませたら当然の成り行きなのだが、男は好きな女に邪険にされるのには耐えられない。といって、母親になった女は強くなる。下手に口や手を出そうものなら、そのしっぺ返しは容赦がない。結局押し黙って我慢を強いられるしかないのが男のサガである。
 将太は寂しかった。だから、さっき佳美にふらつき掛けたのは自然の理だった。
「どうしたの?」
 佳美だった。トリ小屋から出てこない将太に何かを察知したのだろう。もうひと押しとばかりに、佳美の目は怪しく光って見えた。
「いや、別に。盛り付け場が忙しい時間やで、みんな入ってくるさかい……」
「いいやないの。見せつけたったら面白いで」
 佳美は意味ありげに笑った。マスクで隠れた顔の中で覗いている目が、そう見えた。将太は言葉を失った。めまぐるしく頭を働かせた。防衛本能が危険信号を点滅した。
「もうみんな知ってるもん」
「え?何を……」
「わたしが坂手さんと、おかしいって」
 佳美は「クククッ」と笑った。
 将太はショックを受けた。みんなが知っている……?俺と佳美がおかしい……?冗談じゃない。そんな仲じゃないぞ!
「初心(ウブ)なんだから、坂手さんて。だから好きなのよ。
 佳美の手が伸びて来た。
「やめてくれ!」 
将太は佳美の手を逃れてトリ小屋を出た。
「待ってよ。どうするの?」
「休憩や。胡瓜台が出来たら、もうこっちはええから盛り付けに戻ってや」
 素気なく言ってのけた。大げさではなく魔女の毒牙を防げたと思った。
 将太は調理場の裏ドアから外に出ると、自動販売機に向かった。缶コーヒーを買う。気が動転していたせいでボタンを押し間違えた。熱いコーヒーを飲まないとやってられないほどの寒さの中、将太の手には冷たい缶コーヒーがあった。慌てて小銭を出すと、熱いのを買った。ポケットに押し込んだ缶の冷たさで腿が痺れる。熱いのを飲み干してやっと人心地がついた。冷たさと熱さのやり取りは将太を冷静にさせる薬となった。
 携帯の電源を入れた。作業中は切っている。メールを開けると、若菜からだった。
『いま仕事の真っ最中だよね。お疲れさま。こちらは三人ともやっと寝てくれたよ。みんなあなたにそっくりの寝顔。もうおかしくて。くだらない事メールしちゃったかな?明日の朝、好きなもの作っておくから、食べて下さい。以上です。頑張れ、おとうさん!』
(馬鹿やろう……なにが、おとうさんや)
 将太は軽く毒づいた。その胸の内に温かいものが広がる。早く家に帰って、若菜と子どもらの顔が見たくなった。もうひと頑張りだ。
(……さあ、やるぞ!おとうさんは)
 将太は空き缶を専用箱に放り込んだ。
 調理場に戻ると、佳美がパート仲間と喋りながら胡瓜台を作っている。あれでは仕事ははかどらない。自分が、初心な男がまな板に乗せられて面白おかしく話題にされているのかも知れない。(勝手にやってろ!)
 将太はマグロの刺身にかかった。あと三百切れ。邪魔が入らなければ瞬く間だ。

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